最近は教育に関係ない内容が多いのではないか?と何となく思っている大原です。笑
なので今日は、教育論ど真ん中で勝負します!
少し前に放送された番組で、ダルビッシュ投手が「自分の子どもに野球を教えない」と語った場面があったそうです。
残念ながら私は見逃しましたが、ネット記事でその理由を知って、ぜひみなさんと共有したいと思い、今回取り上げることにしました。
インタビューをざっと紹介するとこんな感じです。
「子どもには野球を教えません」とダルビッシュ投手。
「えっ?教えないんですか?」とインタビュアーの栗山氏が驚くと、その理由をこう説明したそうです。
「自分の体じゃないので。自分の体と同じものを持っていれば“こうした方がいいんじゃない?”って言えるけど、まったく違う体で筋力も強いところも自分とは違うし骨格も違うので、教えられないという思いが一番あるんですよ。
だから誰に聞かれても、フォームがどうとかこうした方が良いとかはあまり言わないですね。栄養やトレーニング、コンディションの部分は言いますけど。
人として一括りに見るんじゃなくて、みんなが違う動物って考えたときにやっぱり難しくなってくるじゃないですか。そのぐらい違いがあると思うので、一人ひとり」
ほんと、子どもとの関わりはそうあるべきだと思います。
“そうあるべき”とは思いますが、実際にはそれがなかなか難しいんですよね。
なぜかというと、ダルビッシュ投手のように振る舞うには「私と子どもは人として対等である」という意識がしっかりと根付いている必要があるからです。
「人として対等?そんなの当たり前でしょ!」と仰る方もいるかもしれませんが、知識も経験も子どもより豊富な私たちは、心のどこかに「教え導きたい」という欲望があると思うんです。
言い方を換えると、「私のアドバイスこそ正しい。だから従いなさい」というエゴを持っている。”良かれと思って”言うわけですが、この”良かれと思って”が曲者なのです。
もちろんダルビッシュ投手の言う栄養やトレーニングの領域に当たるような、教えるべきこともあります。例えば、ありがとうやごめんなさいをきちんと言うとか、人を傷つけてはいけないとか。
「うちの子は主体性がなくて…」と言う親や「私の部下は自分から動かなくて困る」と言う上司に限って、自分自身のエゴがその結果を招いていることに気づかないんですよねぇ。(おっと、毒舌失礼…)
「私の正解は私にとっての正解。その人にとっての正解は何だろう?」
相手の自律的な成長のための問いを忘れないようにしたいですね。
私も気をつけねば。(文:大原)