なぜ落語は正座でやるのか?
それは、お客さんの脳を信じてるから・・・
この前テレビでやっていた「林先生の初耳学」でのお話。
落語家の立川談春さんのインタビューに痺れちゃいました。
(落語家が登場人物のセリフを抑揚を抑えて流れるように話すことに対して)
落語は演じるよりメロディーの方が大事。メロディーでしゃべった方が人は音声を映像にしやすい。
正座しているのもそうです。下半身がない方が人は映像にしやすいんです。
頭の薄いおじいさんが落語で女性をやると色っぽく見えるのは、動きがないから。
だから小道具もないんです。
お客さんの脳みそを信じています。何にもなかったら、何でも想像できます。
談春師匠が考える落語というのは、話術で完成された映像を見せるのではなく、一人ひとりの想像力を信じて、お客さんの頭の中で映像を完成してもらうこと。
そのためには体の動きも小道具も過度な演技も必要ない。
余計なものを見せない方が脳の中で映像化しやすいでしょ、と。
「お客さんの脳みそを信じている」
そう淡々と語る談春師匠。
めちゃくちゃかっこよくないですか?
この考え方、ファシリテーションやコーチングにも通じるものがあります。
集まった人と共につくる場の力を信じて協働していくこと。
クライアントの可能性を信じて問い、対話を重ねること。
そこで不可欠なのはコントロール願望や承認欲求を手放して「どうサポートできるか?」だけで勝負していく潔いスタンス。
・・・とまぁカッコよく言ってますけど、これがなかなか一筋縄ではいかないんですわ。苦笑
だから面白いんですけどね。
仕事がら、塾や学校の先生とお話する機会が多いんですが、子ども向けの教育は、まだまだ遠い世界にあります。←(あえて断言口調)
先のインタビューの文脈で言葉にしてみると、
一人ひとりに想像させたらみんなバラバラのことを考えるでしょう?
それじゃ困るんです。
いや~、うちのクラスの子には頭の中で映像をつくるなんて難し過ぎて・・・
だから映像はちゃんと完成して見せてあげないと。
とまあ、こんな感じのお話になることが圧倒的に多いです。
教育の“教”が大事なのは分かるんですけど、(かつて私もそれを生業にしていましたので)もっと“育”を全身で体現する先生が増えたら嬉しいなぁと、個人的には思います。
さて、林先生に最後に「手応えのある生き方をするのに何が必要か?」と問われた談春師匠の答えがコレ。
自分にとって質のいい努力をすることです。
じゃあ、それはどうやって探すのかというと、それは無駄な努力をしてください。
100個やったら1個ぐらいは手応えあるでしょう。
それから、無駄な努力をしてあがいている時の方が楽しいですよ。
やっぱ、痺れる~!! (文:大原)
※2022年1月30日放送のMBSテレビ「日曜日の早耳学」を参考にさせていただきました。