先日、Facebookで植松 努さん※が、『「失敗する権利」を子どもたちから奪わない』という記事をリポストしているのを見つけました。
※植松 努さんについては、2016年4月28日発行の第23号「“リアル下町ロケット”植松 努さん」でご紹介したことがありますね。
記事の内容はこんな感じ。
ドイツの小学校でお弁当を忘れた6歳の子どもが「先生、お弁当を忘れてしまいました」と申し出ると、先生は「どうするの?」と返します。こういう時、子どもが考える答えは大きく2つあるそうです。
- 他の子どもたちにお願いして少しずつ分けてもらう
- 親に電話をしてお弁当を持って来てもらう
後者を選んだ場合、先生がしてくれるのは、親に電話をかけるところまで。
「持って来て」と頼むのは、子どもが自分でやるそうです。
そうやって自分で親に頼んだ子どもは、先生が頼んだ場合に比べて、再び忘れることが少ないそうです。(そりゃそうですよね、失敗の体験をよりしっかり味わえたんだもの)
日本ではこのような場合、どのような対応になるでしょうか。
多くの小学校は給食なので、同様のケースは少ないかも知れませんが、私の勝手な予想では大人が解決してあげることが多い気がします。
今日のタイトルになった「子どもの権利を奪わない」の“権利”とは、
- 子どもが自分自身で考える権利
- 失敗する権利
- そこから学び、成長する権利 を指します。
私たち大人は、知らず知らずのうちに子どもたちからそれらの権利を奪っているかもしれません。
子どものためと思えばこそ。
面倒を避けたい大人の都合で。
理由はいろいろありますが、先回りやフォローのし過ぎで子どもの“学び”を邪魔しないように心がけたいですね。・・・と書いてはみたものの、「果たして自分の子育ては大丈夫だったか?」という思いも浮かんで来ます。
学校で国語や算数を学ぶことができるのが子どもの権利なら、日常生活の中で自ら考える機会を奪われないことも子どもの権利です。
Facebookの記事の結びの言葉がカッコよかった。
子どもから、そして自分自身からも、奪わないようにしたい。
「考える権利」を。
「選ぶ権利」を。
「失敗する権利」を。
そして、「学び、成長する権利」を。
放任でもなく過干渉でもなく、いい塩梅で子どもと関わっていくことは口で言うほど易しくはありませんが、子どものことを”何かが欠けた存在”として見ることだけは、決してしない大人でありたいと思います。
(文:大原)