今日のタイトル「私という流れ」という言葉、意味不明ですよねぇ?
これは、伊藤東凌(とうりょう)さんという住職が仰っていた言葉なんです。
ひょっとしたらこの言葉が、あなたの気持ちをすぅ~っと楽にしてくれるかもしれません。
うまくお伝えできるかどうか、いささか不安ではありますが・・・
まさに“しなやかな心を育む”ことにつながるお話だと思ったので、チャレンジしてみます!
いつもと少し毛色が違うお話ですので、途中まで読んで「こういうのは興味ない」と思われた方はスルーしてくださいね。
私なりの解釈で言うと、「私という流れ」の“流れ”というのは、自分の中にある感情や思考のことです。
私たちは日々、無意識にいろいろなことを思い巡らして暮らしていますよね。
今の今まで仕事のアレコレを心配していたかと思えば、次の瞬間にはあ~もう娘の送迎の時間じゃん、やばーい(汗)ってなったり。←私のこと
そんなふうに、“私”の中には様々な思いが流れていて、ひとときも止まることがない。
心地よい流れのときもあれば、泣きたくなるような流れが来るときもある。
そうかと思えば怒りに打ち震えるような流れがやって来たりと、ひとときも止まることがない。
人間だもの、ねぇ。
そもそも私というのは、とりとめもない流れでできている。
そんな風に自分を見てみよう!
というのが今日の話の主題なのです。
「私という流れ」は、嫌であろうが受け入れようが、どっちにしても浮かんでは去って行き、そうこうしているうちに次の流れが湧いて来て、また流れていくわけです。
そこで、居心地の悪い流れが来ているとき、「ダメだな、自分はまたこんなことを考えてるよ」となるんじゃなくて、「あ~、今私はこんな風に流れているんだね」と受け止めてみる。
良いも悪いもなく、私という流れはそもそもこんなふうに流れているんだ。
これが私という流れなんだから、このままでよいのだ。
そんなふうに受け入れることが、自分に対する大いなる赦しになると、東凌住職は仰っていました。
いかがでしょうか、この視点。
“私”というものを固まった性格のものと見るのではなく、常に流動的に変わり続けているものとして見てみる。
そうすると、今までずっとあった流れを抱え込む必要もないし、これからはかつての“私”にはなかった思いがけない流れがやって来るかもしれない。
今どんな流れでもいいし、これからどんな流れが来てもいい。
そういう構えで、ただただ今の流れに意識を集中して感じてみる。
東凌住職曰く、座禅をしながら涙を流される方がいらっしゃるそうですが、座禅の中で大きな赦しを感じたからではないか、と推測しておられました。
住職のお話は、最近流行のマインドフルネスにかなり近いですよね。
だから座禅を組まなくても、日常の中でちょっと意識を向けてみるだけでも効果的だと思います。
「なんかドキドキするなぁ」とか、「ザワザワするなぁ」なんてときに、ちょっと深呼吸をして、今の”私の流れ”に意識を向けてみる。
そうして心を整えることで、しなやかな心のチカラ「レジリエンス」が高まること請け合いです。
今日のお話、どんな風に伝わったかなぁ・・・
登録解除されたらイヤだなぁ・・・
あぁそうか、今の私にはそんな不安な気持ちが流れているんだなぁ。
それも今の自分だなぁ。
そんな「私という流れ」とともに、今日のメルマガを閉じようと思います。
p.s.
あたかも住職から直接お話を伺ったような書き方をしていますが、Voicyという音声アプリで聞いた内容をもとにしています。笑
※参考:Voicy「寺子屋ラジオ」/伊藤東凌
(文:大原)