昔、ある王様が6人の盲人を集めて、ある動物を撫でさせた。
そして一人ひとりに、「どのような動物だったか?」を述べさせた。
すると6人はこのように答えたという。
「なんと、この動物は柱のようだ」
「何を言う。あれはロープみたいだったぞ」
「いやいや、うちわのような動物だ」
他の3人もまた、
「ヘビのようだ」
「壁のようだ」
「ヤリのようだ」
と、まるでバラバラの答えを言った。
彼らは自分の答えこそ正しいと主張して一歩も譲らず、ついには言い争いを始めてしまった。
さて、6人の盲人が撫でた動物とは何だと思いますか?
ちなみに言い添えておくと、6人の盲人が言っていることには嘘はなく、すべて的確に表現しています。
シンキングターイム!!
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では、正解発表。
答えは、『象』でした!!
「柱のようだ」は足を触った者、「ロープのようだ」は尾を触った者、「うちわのようだ」は耳を触った者、「ヘビのようだ」は鼻を触った者、「壁のようだ」は腹を触った者、「ヤリのようだ」は牙を触った者の意見だったのです。
どうです? みんな正しいことを言っていますよね?
みんなが正しいことを言っているのにも関わらず、争いが起こってしまいました。
なぜでしょうか?
その理由は、象の一部しか触っていないのに、それが全体の姿だと信じ込んでしまったことにあります。
一部しか知らないのに、自分の考えこそが正しいと信じて疑わない。そういう人たちがぶつかり合って、批判や争いごとが生まれる。
私たちの身の回りにもよくある話ですよね。
このお話は、インド発祥の「群盲、象を撫でる(象を評す)」と呼ばれている寓話です。
今日は「物事の一面だけを見てすべてを理解したと思い込んじゃいかんよ~」という文脈でご紹介しましたが、他の解釈もあるみたいです。
私がこのお話を初めて聞いたのは、チームに対するコーチングで用いる“組織内の対立は誰かが間違っているから起こる訳ではない”という捉え方を学んでいる時でした。
でも今日は組織論ではなく、「一人の人をどう見ているか?」という観点から考えてみたいと思います。
私たちは他者を見て「この人は~~な人だ」という評価判断を下しています。
このこと自体は無意識に起こる反応なので、避けようがありません。
でも本当は、その人の一面だけを見て、そう思っているに過ぎません。
・・・ですよね?
しかも人は相手によって、見せる姿を使い分けています。
どんな人でも、大なり小なり相手によって振舞いが変わりますよね。
つまり、仮に私が「この人、超やる気ねぇ~」と思っている人がいたとして、それはその人が私に対してはやる気のない一面を見せているだけかもしれないのです。
言い換えると、その人と私の間にある何かがそうさせているという見方ができるわけです。
ではみなさん、ちょっと引っかかっているあの人の行動をこの視点から見てみてください。
あなたとその人の間にある何がそうさせているのかが、分かるかもしれません。
(文:大原)